話題の映画『ジョーカー』を観る。
連日の外出。
朝に目覚めて、窓を開けて、日の光を浴びて、小鳥を手の甲に乗せて、夢を歌って、するとネズミたちが寝ぼけ眼をこすりながら起きてきて、身支度をちいさな動物たちが手伝ってくれて、俺は足取り軽く心地よい空気のなかを出かけていくわけで。
はい。
午前。友人と待ち合わせ、これまた昨日に引き続き海老名へと向かいました。
目的は、映画を観ること。
貧乏人のくせに生意気な!映画を観るヒマがあるなら働け!というご意見ご鞭撻は一切聞きません!!!スーパー無視します!!!
というわけで、今回観てきた映画はこちら。
ワーナー・ブラザース公式サイトより
『ジョーカー』です!
あらかじめ言っておきますが、物語の本筋についての評論をするつもりはありませんし、ネタバレもしません。
とにかく言いたいことは、映像、脚本、音楽、演技、そのすべてに携わった映画スタッフ全員に敬意を表したいということです。
とくにホアキン・フェニックスの演技は圧巻でしたね……。彼が主演しているスパイク・ジョーンズ監督の映画『her/世界でひとつの彼女』は俺の大好きな映画のひとつですが、ここでホアキンの演技を見て、おどろかされたのを覚えています。
静止画一枚からでも漂ってくる卓抜した演技力。
表情ひとつで見せる俳優の仕事、最高にカッコいいですねえ。シビれます。
この物憂げな表情。
これ、型で抜いたように類似した構図で映し出される終盤のシーンがあるのですが、そこではまるきり、ことごとく彼の見ている世界が変化しているんですよね。
いま画像を見て気づいたけど、この画面にある緑色と、終盤のその似通った構図で使われる赤色との対称性は、彼の心身のあらやる変化を象徴しているのかもしれませんね。
緑と赤といえば、走る列車の先で変化する信号のカットが挿入されたり、そもそもが彼のメイクした顔に出ている強い色調だったりして、映画技法的に表現されるその極端に離れた色のあいだを反復する自我、反復するセリフや外界の音、作家のチェーホフが言うように「物語のなかに拳銃が出てきたならば、それはかならず発砲されなければならない」ならば、創造されたフィクションとして狙われた悪はどれか、などなど。
日常の顔に貼りつけた仮面をもってしてピエロを演じる群衆と、ピエロの仮面を脱ぎ捨てたそのしたからもピエロの顔が出てくるジョーカーとの対比は、メタ的に、思想のない苦しみしか持てないがゆえに扇動されやすい人の心を揶揄しているようで、愉快半分、不愉快半分だったり。
あることないこと勝手に想像してひとりで盛り上がれるのは映画のいいところですよねえ。そしていい映画というのは、あることないこと好き勝手に語りたくなるものだと思います。
よって、売れるものがいいとは限らなくとも、メディアでの取り上げかたを見るだけで、この映画の出来栄えについては星がいくつとか、あえて言わずもがなということなのかもしれません。
手放しで絶賛するにも勇気のいる作品かもしれませんが、まあそこは問うに落ちず語るに落ちるという言葉に委ねましょう。
二十代の前半、テンションに流されるまま「年間に100本は映画を観よう」と決めて、現在にいたるまでおそらく成功した試しがないのですが、どうしてもこういった素晴らしい映画を観ると「やっぱり映画は見なきゃダメ絶対〜!」と鼻息荒くなってしまう。
そもそもが俺は一時のテンションに身を任せすぎてしまうきらいがあるので、いよいよ改めないといけないお年頃なのかもしれませんが。
しかし、この映画「全体」で描かれる狂気、やるせなさ、苛立ち、しつこく付き纏う黒い霧のような閉塞感は、ある種の決してすくなくない数の人間にとっては普遍的で、かつ抑圧されているものでしょうし、実際にアメリカでは公開館が限定されていたりするように、慎重にならざるをえない要素があるのは仕方がないことなのかもしれません。
日本でも表現の自由に関する問題が取り沙汰されていたりしますが(これについてはハッキリとした意見が個人的にはありますが)、ことほど左様に芸術というものは、どうにも善悪の明確な境界線を引くのがむずかしいもののようですね。
だからこそ、曖昧さのなかで爆発することによって想像力に連鎖し、人知に半無限の広がりと奥行きを与える芸術性こそが芸術たらしめるのでしょうし、いわば曖昧さを描けていること、揺らぎがあること、戸惑わせること、現実感覚を麻痺させることこそが芸術の価値だと俺は思います。
まあジョーカーについて言えば、端的に、つまりジョーカーというキャラクターがそれだけのカリスマを持っているということなのかもしれませんが。
カリスマについても考えさせられましたが、この作品を観て俺が解釈したカリスマの条件を挙げるなら《自分自身の存在を強烈に自覚していること》《たったひとりの大衆に自分自身の存在を語りかけることができること》でしょうか。
カリスマ美容師、カリスマホスト、カリスマ政治家……世に数多いるカリスマのなかでも真のカリスマと称されることが多いという、カリスマオブカリスマ、カリスマ無職を目指す俺としてはおおいに勉強になるところでした。
注:これは映画による悪影響ではありません。長い年月を経て養われた素質に依拠するものであります。わたくし持ち前の責任転嫁技術が遺憾なく発揮された戯言としてお切り捨てください。
では!
今回の映画を観て抱いた感想を一言でまとめます!
「だれもなにもわかりはしないのだから、すくなくともだれもなにもわからないということをわかれたらいいよね!」
ま、いわゆる無知の知というやつです。
……。
あらゐけいいち著 『日常』より
以上です。
やや真面目な記事になってしまいましたが、今後はしっかりと無意味でくだらない内容のものを書いていきたいと思いますので、どうぞよしなに。
なかのでした。