アマチュアな日々

原付旅をメインに、本や映画、散歩にゲームなど、その時々の出来事を気ままに記す、という趣向のブログ。やめたくなったら即やめます。

おもいがけずある日唐突に靴屋で勃発した仁義なき「身の丈に合った」戦いと、映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』を観たことの記録と感想。

み‐の‐たけ【身の丈/身の▽長】
1 せいの高さ。身長。背丈。また、自分の身長。「―二メートル余の大男」「―ほどに積もった雪」
2 (多く「身の丈に合った」の形で)無理をせず、力相応に対処すること。分相応。「―に合った経営」「―に合わせた生活を送る」「―を超える過大な投資」「―外交」

 

身の丈に合わせる。最高にステキな言葉だ。本当に。

 

しかし身の丈は努力で決まるものではない。

これはほとんど先天的な要素に支配されている。

もし人生が、ことの始まりからすべて自我を持ってあらゆる選択肢を自ら取ったり捨てたりできるのだとしたら、そこにはすくなからず自己責任が生じるかもしれないが。

 

仮の話をしよう。

 

仮に、もし俺の足の大きさが28.5だったとして、イケてるスニーカーのサイズが25だったとする。こういうことはままある。めずらしいことじゃない。でも俺はこの足のサイズと付き合っていかなきゃならないのと同様には、合う靴のサイズが手に入らないことの責任を取るつもりはない。他の店の在庫に俺の足にあったサイズがあるか確認してもらうなり、新たに発注してもらうなりして、遠慮なく手に入れさせてもらうだろう。

それは、現実に可能なことなのだ。もちろん。

 

「あのお、もしもしすみませんが。」

「はいっ、らっしゃっせ〜。」

「この靴なんですけど、あのお、これってお店のなかにあるものすべて棚に出てるかぎりですか?いや、その、28近辺のサイズのこの靴があったら欲しいかなーなんて思っているんですけれども、ええ。」

「しょうしょうお待ちくあっ!さ〜い!お調べして参りやあす!」

数分後。

「お待たせっしゃっしゃっしゃ〜!」

「はい。すみませんね。お手数おかけしてほんとに。」

「こちらの商品ですけど、近隣の店舗に在庫を問い合わせてみたところ一足だけ準備できる商品がございましたので、確保しておきましょうか?当店でお受け取りいただくこともできますし、お客様ご自身で〇〇店へ足を運んでいただいても結構でございます。」

「マジサンキューなり最高店員くんブチあげテンション〜。」

 

ざっとこんなもんですよ。

まことに遺憾ながら、それができないのであれば、御社の努力不足、あるいは頭でっかちのカチコチ便秘脳のクソ役立たずという認識になってしかるべきでしょう。

 

「すいませーん。靴を探してるんですが、これの28のサイズってありますか?」

「あるわけねえだろダボ!見てわからねえのか!?ああん!?失礼ですがお客様の目は節穴ですかあ!?ないったらねえんだよ!贅沢言わずにそのへんに転がってるお客様の足のサイズにピッタリ合いそうなものをお履きになってはいかがですか〜!?」

 

でもね。民間の企業だったらこんなお粗末、絶対に許されませんよ。

やれやれ。

無職にこんなこと言わせやがって。

 

 

……こっちだってねえ!!!この口でこんなこと言うの、恥ずかしいんですからね!!!

 

 

でもまあたしかに、言葉を使うのはむずかしくて、とりわけ話し言葉となると、受け答えをするのにろくに考える時間もなかったりするものだから、へんてこな言い回しになったりやや雑な表現になったりすることもままあるだろう。

わかる。とてもよくわかる。

しかし「身の丈に合わせた戦い方」などといった言葉には、さすがに愛嬌のかけらもない。

たとえ間違えだとしても、間違え方は、間違えなかったパターンにすくなからず依拠するものである。まるきり思ってもいないことはなかなか口に出てこない。なんらかの理由で出てきてしまったとしても、それでも、使う人によってはあまりに酷すぎる言葉だ。

 

 

というわけで、だれとは言わないが、私観に基づいて某氏を納豆のなかにぶち込んで50000回混ぜられるの刑に処す。ネバネバの中で音をあげさせてやる。ネバーギブアップなんて言葉も、ネバにトラウマを覚えて二度と使えなくなるかもしれませんぞ〜。

うわははは!

怯えろ怯えろ!赦しを請い、泣きわめく姿を見せてくれえええ!

 

 

身の程知らずで失礼。

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

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ダニー・ストロング監督、ニコラス・ホルト主演の映画『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』を観た。

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ』で有名な謎の作家 サリンジャーの半生を追ったドラマ。

とてもいい映画でした。

ケヴィン・スパイシーが脇を固めるだけで映画に安定感が生まれますよねー。

セクハラ問題はとても残念でしたが、役者としての存在感はやはり申し分ない。

 

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(机に足乗せてサマになる男はケビン・スパイシーと竹原慎二がツートップでいいな?)

 

書いて、書いて、書きまくる。

創作論にはさまざまなものがあってなにが正しいのか、あるいは誤っているのかわからないけれど、とにかく自分の全身全霊全力をもって目の前のものにぶつけてみるやり方って、非常にアツい。

 

彼は裕福な家庭の出自らしい。

前述のお話の文脈で言えば、彼の「身の丈」はなかなかのものである。

しかし彼の父は精肉業界で財を成した人で、実利的な考えを持つ。創作などうまくいかないと頭から決めている。

そういう意味では、彼の「身の丈」の成長は父の無理解によって阻まれていた。この類の意地悪な言葉は罪である。しばしば大人の知ったかぶりによって、若者は開かれた未来を閉じられる。

大人を逃れられない年頃になりつつあるいま、俺自身考えなくてはならないことだ。若者に不可能はない。あったところで、俺にその不可能を定義する資格はないということ。

 

一方で、彼には背中を押してくれる重要な導き手がいる。母と、スペイシー演じるウィット・バーネットである。

実質、作家サリンジャーとしての父はウィットだろう。野心的な人というのはしばしば、血の繋がらない父や母がいるものだろうか。

ナルトにはイルカ先生がいたし、ルフィにはシャンクスがいた。

ぜんぜん文学的じゃない比喩。お里が知れますな。

 

ところで海外の映画やドラマに出てくる大学の授業や教授ってみんなユーモアのセンス抜群で最高なのだけれど、実際もあんな感じなのだろうか?

あれだったらさぞかし授業も楽しいだろうなあ。あと10年早く知っていれば、俺もアイビーリーグに進み、ごりごり勉強に精を出してたかも。そんで創作を学んで、一躍文壇の寵児になって、ノーベル文学賞かっさらって、薔薇色のアメリカン・ドリーム!ゲット・マニー!フゥゥウウウ!

 

そんな欲望ダダ漏れの悪魔的たらればの用法を恥ずかしげもなく想う27ちゃい。

 

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東村アキコ著 『東京タラレバ娘』より

 

10年といえば、彼が亡くなったのはつい10年ほど前のことらしいのだが、アメリカ古典文学の巨匠というイメージを勝手に抱いていた俺はとても驚いた。

生ける伝説、みたいな存在だったんですね。

小説における物語の重要性を説くシーンが何度もありましたが、師や編集者から説かれるサリンジャーの人生そのものがそのまま物語として現に映画化までして成立しているのは皮肉っぽくて好き。

 

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(クレア役のルーシー・ボイントン。この耳周りの感じ、最高すぎる……。目が幸せすぎて、眼球が猛烈に引っ込み脳みそぶち破って頭蓋骨とくっつきそう。)

 

後年、彼は出版を拒絶するが、引き続き、書いて、書いて、書きまくる。書くことによって、自分を発見していく。それは単なる金儲けの道具じゃない。彼はむしろ、彼自身の描いた人物 ホールデンの存在によって苦しめられたりもする。金でも名声でもない。ただひたすらに書く。

俺が富にも名声にもならない駄文を書き殴らずにいられないのも、結局、自分の頭のなかにある感情が整理できずに、果てしなく曖昧なままでいるのが許せないからだ。

というわけで似てる。クリソツ。超我田引水。

つまり俺は時期サリンジャー候補というわけ。

 

え?

 

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それにしてもPTSDが描かれた物語は総じて苦しい。

戦争は本当に怖い。感情を移入しすぎるといつもひどく落ちこむ。

生命が脅かされない場所にいて好き勝手言ってる自分に恥ずかしさや、場合によっては罪悪感を覚えることもある。

この「感じやすさ」と言われるものを笑い飛ばしてしまえる人間も怖い。そしてそういう人は割に多くいる。

そういうとき、俺はなにも言えず腹のなかで不平をぼやくだけ。

「ポジティブもおおいに結構だけど、もうすこし真剣にものを考えてみたらどうかな?」

ダサいのはわかってる。

でもダサいのは俺が、あるいは君が、他の人間よりも劣っているからなのだろうか?

 

そんなことを考えてしまう人は、共感しまくること間違いないだろう。

サリンジャーの人生から得られるものは、この映画から得られるものは、決して少なくない。

とても大事なことを教わった気がする。ずっと誠実でい続けられるのだ、人間は。

すくなくとも観て損はない。

 

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C)2016 REBEL MOVIE, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

 

人としての欠陥を抱えて日常生活がままならない人間は、むしろ「身の丈に合った」生き方として、芸術家を志してみてもいいかもしれない。

心が決まれば、あとはやり続けるだけだ。これがきっととても難しいのだろうけど。

 

 

 

それでも、やれないことはないはずだよな?

 

 

 

エスと言ってよ、J。

話題の映画『ジョーカー』を観る。

連日の外出。

 


夢はひそかに (シンデレラ)

 

朝に目覚めて、窓を開けて、日の光を浴びて、小鳥を手の甲に乗せて、夢を歌って、するとネズミたちが寝ぼけ眼をこすりながら起きてきて、身支度をちいさな動物たちが手伝ってくれて、俺は足取り軽く心地よい空気のなかを出かけていくわけで。

 

 

 

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はい。

 

午前。友人と待ち合わせ、これまた昨日に引き続き海老名へと向かいました。

目的は、映画を観ること。

貧乏人のくせに生意気な!映画を観るヒマがあるなら働け!というご意見ご鞭撻は一切聞きません!!!スーパー無視します!!!

 

というわけで、今回観てきた映画はこちら。

 

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ワーナー・ブラザース公式サイトより

 

『ジョーカー』です!

あらかじめ言っておきますが、物語の本筋についての評論をするつもりはありませんし、ネタバレもしません。

とにかく言いたいことは、映像、脚本、音楽、演技、そのすべてに携わった映画スタッフ全員に敬意を表したいということです。

とくにホアキン・フェニックスの演技は圧巻でしたね……。彼が主演しているスパイク・ジョーンズ監督の映画『her/世界でひとつの彼女』は俺の大好きな映画のひとつですが、ここでホアキンの演技を見て、おどろかされたのを覚えています。

 

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静止画一枚からでも漂ってくる卓抜した演技力。

表情ひとつで見せる俳優の仕事、最高にカッコいいですねえ。シビれます。

 

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この物憂げな表情。

これ、型で抜いたように類似した構図で映し出される終盤のシーンがあるのですが、そこではまるきり、ことごとく彼の見ている世界が変化しているんですよね。

いま画像を見て気づいたけど、この画面にある緑色と、終盤のその似通った構図で使われる赤色との対称性は、彼の心身のあらやる変化を象徴しているのかもしれませんね。

緑と赤といえば、走る列車の先で変化する信号のカットが挿入されたり、そもそもが彼のメイクした顔に出ている強い色調だったりして、映画技法的に表現されるその極端に離れた色のあいだを反復する自我、反復するセリフや外界の音、作家のチェーホフが言うように「物語のなかに拳銃が出てきたならば、それはかならず発砲されなければならない」ならば、創造されたフィクションとして狙われた悪はどれか、などなど。

日常の顔に貼りつけた仮面をもってしてピエロを演じる群衆と、ピエロの仮面を脱ぎ捨てたそのしたからもピエロの顔が出てくるジョーカーとの対比は、メタ的に、思想のない苦しみしか持てないがゆえに扇動されやすい人の心を揶揄しているようで、愉快半分、不愉快半分だったり。

あることないこと勝手に想像してひとりで盛り上がれるのは映画のいいところですよねえ。そしていい映画というのは、あることないこと好き勝手に語りたくなるものだと思います。

よって、売れるものがいいとは限らなくとも、メディアでの取り上げかたを見るだけで、この映画の出来栄えについては星がいくつとか、あえて言わずもがなということなのかもしれません。

手放しで絶賛するにも勇気のいる作品かもしれませんが、まあそこは問うに落ちず語るに落ちるという言葉に委ねましょう。

 

二十代の前半、テンションに流されるまま「年間に100本は映画を観よう」と決めて、現在にいたるまでおそらく成功した試しがないのですが、どうしてもこういった素晴らしい映画を観ると「やっぱり映画は見なきゃダメ絶対〜!」と鼻息荒くなってしまう。

そもそもが俺は一時のテンションに身を任せすぎてしまうきらいがあるので、いよいよ改めないといけないお年頃なのかもしれませんが。

 

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空知英秋著 『銀魂』より

 

しかし、この映画「全体」で描かれる狂気、やるせなさ、苛立ち、しつこく付き纏う黒い霧のような閉塞感は、ある種の決してすくなくない数の人間にとっては普遍的で、かつ抑圧されているものでしょうし、実際にアメリカでは公開館が限定されていたりするように、慎重にならざるをえない要素があるのは仕方がないことなのかもしれません。

日本でも表現の自由に関する問題が取り沙汰されていたりしますが(これについてはハッキリとした意見が個人的にはありますが)、ことほど左様に芸術というものは、どうにも善悪の明確な境界線を引くのがむずかしいもののようですね。

だからこそ、曖昧さのなかで爆発することによって想像力に連鎖し、人知に半無限の広がりと奥行きを与える芸術性こそが芸術たらしめるのでしょうし、いわば曖昧さを描けていること、揺らぎがあること、戸惑わせること、現実感覚を麻痺させることこそが芸術の価値だと俺は思います。

まあジョーカーについて言えば、端的に、つまりジョーカーというキャラクターがそれだけのカリスマを持っているということなのかもしれませんが。

 

カリスマについても考えさせられましたが、この作品を観て俺が解釈したカリスマの条件を挙げるなら《自分自身の存在を強烈に自覚していること》《たったひとりの大衆に自分自身の存在を語りかけることができること》でしょうか。

 

カリスマ美容師、カリスマホスト、カリスマ政治家……世に数多いるカリスマのなかでも真のカリスマと称されることが多いという、カリスマオブカリスマ、カリスマ無職を目指す俺としてはおおいに勉強になるところでした。

注:これは映画による悪影響ではありません。長い年月を経て養われた素質に依拠するものであります。わたくし持ち前の責任転嫁技術が遺憾なく発揮された戯言としてお切り捨てください。

 

では!

今回の映画を観て抱いた感想を一言でまとめます!

 

「だれもなにもわかりはしないのだから、すくなくともだれもなにもわからないということをわかれたらいいよね!」

 

ま、いわゆる無知の知というやつです。

 

……。

 

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あらゐけいいち著 『日常』より

 

以上です。

やや真面目な記事になってしまいましたが、今後はしっかりと無意味でくだらない内容のものを書いていきたいと思いますので、どうぞよしなに。

なかのでした。

 

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